日本ダービーとは〜怪鳥とダービー


<日本ダービーとは>

 日本ダービー(東京優駿)は、近代競馬発祥の地イギリスダービーを範とし、競走体系の確立と競走馬の資質向上を図ることを目的として、昭和7年より実施されている日本最高峰のレースである。出走資格はサラブレッド系4歳牡馬・牝馬であり(牝馬は牝馬限定の「オークス」があるため、近年は出走例がほとんどない−今年はビワハイジが13年ぶりに挑戦-)、競走馬の一生で一度しか出るチャンスがない。
 近年、競走体系の確立によって、さまざまな魅力あるGIレースが実施されているが、競馬界の中では相も変わらずこの「日本ダービー」をとることが最大の目的と言って過言ではない。紛れもなく、日本で最高の栄誉のあるレースである。

 第1回、第2回は目黒の東京競馬場で、第3回以降は府中に移転した東京競馬場で行われている。時期は、昨年までは5月の最終日曜日に行われていたが、今年のレース改編に伴い、6月の第一週に組み込まれた。距離は2400mと比較的長く、特に4歳のこの時期にこの距離を克服するのは難しく、ダービーが至難といわれる要素の一つでもある。
 また、ダービーは4月の皐月賞、11月の菊花賞とともに4歳牡馬クラシック三冠レースの一つである。俗に皐月賞(中山、2000m)は速い馬が、菊花賞(京都、3000m)は強い馬が、そしてダービー(東京、2400m)は運のある馬が勝つと言われる。20数頭〜30頭以上が出走した過去においては、実力だけでは勝てない面があったとも言えるが、平成3年、最後の20番枠で見事トウカイテイオーが勝った翌年から18頭に制限され、強い馬が実力を発揮できる紛れの少ないレースになりつつある。

<怪鳥と日本ダービー>

 府中生まれの怪鳥とダービーとの関わり合いは、29歳の年齢からは考えられないくらい長い。記憶に残っている最も古いダービーは、昭和48年、元祖「怪物」のハイセイコーがタケホープに破れ3着したときである。これを、悔しい思いでテレビの前に座っていて、親戚にびっくりされた記憶があるから、実に23年に及ぶ。
 この後、しばらくは競馬場での観戦こそしなかったが、カブラヤオー(昭和50年)、クライムカイザー(昭和51年)のダービーの日には父親に連れられて(父親が)馬券を買い、家に戻ってテレビ観戦するといったことをした。
 また、小学校で、「ラッキールーラ強かったなぁ」(昭和52年)とクラスの仲間と話していたおぼえもあり、非常に昔からのつきあいになっている。なお、蛇足ながら私の周りだけこんな小学生だったわけではなく、「ハイセイコーが引退したときは泣けた」(高校の先輩)、「グリーングラスがやっと有馬記念を勝ってね」(友人)等、成人となってから同じような話を聞いており、やはり当時の府中の小学生と言うのは、そういうものだったようである。

 怪鳥が実際に観戦をし始めたのは随分と経ってからで、昭和61年、ダイナガリバーが勝った年(第53回)からである。以来、今年の第63回まで、11年連続でスタンドから観戦している。ほとんど年中行事の一つのようなもので、「ダービーが終わると梅雨の季節がやってきて、欅の新緑が深くなる」といつも語っている。



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